言うほどのことでもない

結構大切なことのような気もする

所感

 一度歪んだ自己肯定感は、二度と戻らない。

 急に何を言い出すのか、昨日まで何もない何もないと嘆いていたくせに、と自分でも思う。急に思いついた。というよりは、ずっと書こうと思っていたのかもしれない。別に暗い過去をねちねち綴ってヒロイックな感傷に浸りたいわけではない。そもそも私が抱える闇なんて大したことがないのだろうし、人に言うべきものでもないから。ただ、自己肯定感について考えてみようと思ったのだ。

ひとの自己肯定感は、脆い。脆くて柔い。ちょっとしたことばでたやすくぼろぼろにできる。 最近、ツイッターの広告に小学生が過食嘔吐をする漫画が出てくる。その小学生は同級生から太っていることをからかわれて、1年間お菓子を我慢していたという経緯があった。その漫画を読んだわけではないのでどうとも言いづらいが、小学生のとき言われたことって意外と人生を左右するよな、とふと思った。自分が卑屈である理由を考えてみたら、小・中学生のときに言われたことや、やってしまったことを引きずっているから、という結論に至る。私の場合、ではあるけれど。まだ確固たる自分というものが固まってすらいない時期の記憶に苛まれるのはしんどい。小・中学生のときなんて何を楽しみにしていたかもよく思い出せない。自分が悪いならまだしも他人から人生にちょっかいを出されている感覚がしんどい。同じように、私も誰かの人生にちょっかいを出していると思うと気が狂いそうだ。慎重になりたい。

 わりとからかわれがちな容姿に生まれたことでずっと何かといじられてきたが、最近はそれが嫌じゃないし、それをネタにしているし、それで誰かが笑ってくれればそれでいい。今はな。それでもいいかなと思えるようになったから。でも、昔はちょっと嫌だったし、全員が全員いじられて平気なわけでもないのだ。容姿いじりは最も簡単にひとの自己肯定感を破壊することができるから。容姿をいじられてもへらへらすることが私の防衛手段だったというだけで。ちょっと話変わりますけど容姿をいじる笑いを非難する人、気持ちはわかるし立派なことだと思うんですけど、私は「逃げ道を奪われている」という感覚になってつらい。そういうことをテレビでするから、テレビと現実の区別がつかないバカが誰かを傷つけ、たくさんの人が歪んだ自己肯定感を抱える羽目になるというのもわかる、私もそうだし、でも、それを防衛としている人の存在も無視しないでほしい、それを仕事としている人もいるし、同じコンプレックスを持つ人がいると分かることで救われることもあるのだ。容姿が優れていないことも運動神経が悪いことも絵が下手なことも、私だけのウィークポイントではないと分かったのが、どれだけ救いになっただろうか。正義の名の下に人を追いやるのはやめてほしい、人の存在をひとことで破壊するのはもっとやめてほしいけど。防衛手段としている時点で、健全ではないのだ多分。他の人もいじられて平気だと思っていた時期もあったし、それで怒られることには?と思っていたしそれはそれで異常だし最悪だ。

 最近になって、考え方を変えようと思えたり、自分をそんなに悪かないかなと思うようになったりできるようになったけど、卑屈であることに変わりはない。卑屈であることで良かったことは基本的にない。鬱屈をおもしろにできるユーモアセンスはない。ほしい。すべてまとめて面白くできるような人間になりたいし、強くしなやかに生きていきたい。

 

これを書いたあと、急に虚しくなりレポートを提出したのちタピオカを飲みました。f:id:aoiharugreen:20180829183908j:image

おそらく明日の研修に行きたくなさすぎるという念がこうさせたのでしょう。助けてください。でもこれを乗り越えたら首都へ行けるので何でもいいですね。推しを拝むために頑張ります、オタクなので