言うほどのことでもない

結構大切なことのような気もする

四半世紀と健康

 25歳になった。

 20歳を過ぎたあたりから自分の年齢が自分に紐づけられているという感覚が薄くて、今も「25歳と言われましても……」と思っている。

 この数ヶ月は体調を崩してばかりだった。日中の強い眠気に診断名がついて(病気の話については詳しい言及を避ける)、薬が処方されたもののその薬が合わず副作用の動悸吐き気食欲不振に1週間ほど苦しめられた。前回の記事を書いたのはようやく復調してご飯がまともに食べられることの喜びをかみしめている時期だった。

 幸い代わりに処方された薬では副作用もなく安心していたのも束の間、今度はいやに長引くタイプの風邪をひいた。PCR検査は陰性だったのだが、前述の体調不良で免疫が下がっていたのか刺すような喉の痛みがしばらく続いた。

 そして先月初旬に家族丸ごとコロナになった。今? 幸い軽症だったし生活に支障をきたすほどの後遺症はなかったもののよく考えたらしばらく体がだるかったかもしれない。

 こう体調不良を繰り返すと、心の方まで弱ってくる。どうにもならないことを考えては自分の過去を否定したり、今までやってきたことが全部無駄に思えてメソメソ泣いたりした。最近復職(少しややこしい事情があるのだが、書くと長くなるのでそう表現する)したのだが、その直前までは不安も相まって動悸が止まらなくなったり情緒不安定になったりした。家族のおかげでどうにか持ち直して、最近は心身ともに元気になりつつある。

 

 25歳の目標としては、心身ともに健康に生きること。いきなりバリバリ働いたり完全に何にも依存しない人間になれたりしたらそれが一番理想だけれど、そう上手くはいかないだろう。自分がそれほどストイックでも、意思の強いわけでもないと認めるのはいささか苦しいけれどそれを認めて自分なりに、持続可能な頑張る方法を見つけるのも「大人になる」の第一歩ではないだろうか。

 それと、魂を濁らせないこと。心身が弱ったこの数か月、心の核の部分が薄汚れて、自分がこれまで生きてきた中で大事にしていたことがわからなくなってしまった。これがいちばん辛いことだったかもしれない。元気になりつつある今、「そういえば私ってこういう感じだったな」と再認識することが多々ある。それを見失って信念がブレた状態で生きるのがしんどかった。そんな状態でも絶対に守り続けたことはあって、そういうところは自分でも良いなと思う。

 私は自分のことがそこそこ好きだ。大好きとは断言しない、やや逃げ道を作るような言い回しも含めて好きで、興味深い人間だと思う。そんな自分を信じて愛していたい。後から読み返したら恥ずかしくなるだろうが、私はまた心が萎れるであろういつかの私を救うためにこれを書いている。この1年も大小さまざまなことが起こるだろうけど、25歳の私が健やかに自分と、自分が大切にしたいひとやものを愛して生きていけるように願っている。いや、願うだけじゃなく、努めていく。